1. 概要
成長マトリクス(製品・市場マトリクス)は、1957年にアメリカの経営学者イゴール・アンゾフによって提唱された経営戦略の枠組みです。この戦略的ツールは、企業が新たな成長機会を特定し、評価するために使用されます。成長マトリクスは、「既存市場と新規市場」「既存製品と新規製品」という2つの軸から構成される2×2のマトリクスであり、これにより4つの成長戦略オプションが提示されます。
この成長マトリクスの目的は、企業が持続可能な成長を達成するために、市場と製品の組み合わせを検討し、最適な成長戦略を選択することにあります。応用情報処理技術者試験においても、企業の戦略的意思決定の基本的フレームワークとして重要視されている概念です。
2. 詳細説明
2.1. 成長マトリクスの構造
成長マトリクスは、縦軸に「市場」(既存/新規)、横軸に「製品」(既存/新規)を配置した2×2のマトリクスとして表現されます。この構造から導かれる4つの成長戦略は以下の通りです。
- 市場浸透戦略(既存市場×既存製品)
- 市場開拓戦略(新規市場×既存製品)
- 製品開発戦略(既存市場×新規製品)
- 多角化戦略(新規市場×新規製品)
graph TB subgraph "製品" direction LR 既存製品 --- 新規製品 end subgraph "市場" direction TB 既存市場 --- 新規市場 end subgraph "市場浸透戦略" direction TB 市場浸透["市場浸透戦略
(Market Penetration)
既存市場×既存製品
リスク:低"] style 市場浸透 fill:#d4f1f9,stroke:#333,stroke-width:1px end subgraph "製品開発戦略" direction TB 製品開発["製品開発戦略
(Product Development)
既存市場×新規製品
リスク:中"] style 製品開発 fill:#ffe6cc,stroke:#333,stroke-width:1px end subgraph "市場開拓戦略" direction TB 市場開拓["市場開拓戦略
(Market Development)
新規市場×既存製品
リスク:中"] style 市場開拓 fill:#d5e8d4,stroke:#333,stroke-width:1px end subgraph "多角化戦略" direction TB 多角化["多角化戦略
(Diversification)
新規市場×新規製品
リスク:高"] style 多角化 fill:#f8cecc,stroke:#333,stroke-width:1px end 市場浸透 --- 製品開発 市場浸透 --- 市場開拓 製品開発 --- 多角化 市場開拓 --- 多角化
図1:アンゾフの成長マトリクス(製品・市場マトリクス)
2.2. 各成長戦略の特徴
2.2.1. 市場浸透戦略
既存の市場で既存の製品を用いて市場シェアを拡大する戦略です。この戦略は、最もリスクが低い選択肢とされています。具体的な施策としては、価格戦略の見直し、プロモーション活動の強化、流通チャネルの拡大などがあります。
2.2.2. 市場開拓戦略
既存の製品を新しい市場に投入する戦略です。新規市場としては、新しい地理的市場(国内の未進出地域や海外市場)や、これまでターゲットとしていなかった顧客セグメントなどが考えられます。この戦略は、製品開発コストをかけずに新たな収益源を確保できるメリットがあります。
2.2.3. 製品開発戦略
既存の市場に対して新しい製品やサービスを提供する戦略です。顧客ニーズの変化や技術革新に対応するために、既存製品の改良や全く新しい製品の開発を行います。この戦略は、顧客の既存の信頼関係を活かせるメリットがあります。
2.2.4. 多角化戦略
新しい市場に新しい製品を投入する戦略です。4つの戦略の中で最もリスクが高いとされますが、成功した場合の成長ポテンシャルも最も大きいといわれています。多角化戦略はさらに以下の3つに分類されます。
- 関連多角化:既存事業と何らかの関連性を持つ分野への進出
- 非関連多角化:既存事業とは全く関連性のない分野への進出
- 垂直統合:サプライチェーンの上流または下流への進出
図2:4つの成長戦略のリスクとリターンの関係
戦略 | 市場×製品 | 特徴 | リスク | 典型的な施策例 |
---|---|---|---|---|
市場浸透戦略 | 既存×既存 |
・既存市場でのシェア拡大 ・競合からのシェア獲得 ・顧客の利用頻度向上 |
低 |
・価格戦略の見直し ・広告・プロモーション強化 ・流通チャネルの拡大 ・顧客サービスの向上 |
市場開拓戦略 | 新規×既存 |
・地理的拡大 ・新セグメントの開拓 ・既存製品の新用途開発 |
中 |
・海外市場への進出 ・未開拓地域への展開 ・新顧客層へのアプローチ ・新チャネルの開発 |
製品開発戦略 | 既存×新規 |
・既存顧客への新製品提供 ・技術革新への対応 ・顧客ニーズの変化への対応 |
中 |
・製品ラインの拡充 ・既存製品の改良・高機能化 ・新製品の開発 ・技術革新の取り込み |
多角化戦略 | 新規×新規 |
・関連多角化 ・非関連多角化 ・垂直統合 |
高 |
・M&A ・新規事業立ち上げ ・ジョイントベンチャー ・サプライチェーン統合 |
表1:各成長戦略の比較表
2.3. 成長マトリクスの適用手順
成長マトリクスを活用するための基本的な手順は以下の通りです。
- 現状分析:自社の現在の市場ポジションと製品ポートフォリオを分析する
- 成長目標の設定:企業として達成したい成長目標を明確にする
- 戦略オプションの評価:4つの成長戦略オプションそれぞれのメリット・デメリット、リスク・リターンを評価する
- 最適戦略の選択:自社の状況や市場環境に最適な成長戦略を選択する
- 実行計画の策定:選択した戦略を実行するための具体的な計画を立案する
- 実行と評価:計画を実行し、定期的に評価・修正を行う
2.4. 応用情報試験での出題傾向
応用情報処理技術者試験における成長マトリクスの出題傾向としては、以下のようなパターンが見られます。
- 戦略の分類問題:企業活動の事例が示され、どの成長戦略に該当するかを選択する問題
- 戦略の特徴理解:各戦略のリスクレベルやメリット・デメリットについての理解を問う問題
- IT活用との関連:各成長戦略をITでどのように支援できるかを問う問題
- 経営戦略全体の中での位置づけ:他の経営戦略手法(SWOT分析、3C分析など)との関連性を問う問題
出題形式としては、選択式が多いですが、記述式で戦略の特徴や適用方法を説明させる問題も出題されることがあります。
3. 応用例
図3:実企業による成長マトリクスの活用例
3.1. IT業界での応用例
3.1.1. Apple社の例
Apple社は成長マトリクスの各戦略を効果的に活用している企業の一例です。
- 市場浸透戦略:既存のiPhoneの新モデル投入によるユーザーの買い替え促進
- 市場開拓戦略:新興国市場へのiPhoneの投入
- 製品開発戦略:既存顧客向けのApple WatchやAirPodsなどの新製品開発
- 多角化戦略:Apple TVやApple Card(金融サービス)への進出
3.1.2. Amazon社の例
Amazon社も成長マトリクスに基づいた戦略展開を行っています。
- 市場浸透戦略:Prime会員サービスの拡充によるeコマース市場でのシェア拡大
- 市場開拓戦略:グローバル展開によるeコマースサービスの地理的拡大
- 製品開発戦略:Echo(Alexaスピーカー)などのハードウェア製品の開発
- 多角化戦略:AWSによるクラウドサービス事業の展開
3.2. 製造業での応用例
製造業においても成長マトリクスは広く適用されています。
- 市場浸透戦略:既存製品の価格競争力強化や品質改善
- 市場開拓戦略:海外市場への輸出拡大
- 製品開発戦略:既存技術を活用した新製品開発
- 多角化戦略:IoT技術を活用した製造業からサービス業への転換(例:GEのインダストリアル・インターネット戦略)
3.3. ITによる成長戦略の支援
情報システム部門やIT企業は、各成長戦略の実現を以下のように支援することができます。
- 市場浸透戦略支援:顧客関係管理(CRM)システムによる顧客分析、デジタルマーケティング基盤の構築
- 市場開拓戦略支援:越境ECプラットフォーム構築、多言語対応システム開発
- 製品開発戦略支援:製品ライフサイクル管理(PLM)システム、R&D支援システム
- 多角化戦略支援:新規事業向けシステム開発、M&A統合支援
4. 例題
例題1
問題: ある家電メーカーAが採用した以下の戦略は、アンゾフの成長マトリクスにおいてどの戦略に分類されるか選びなさい。
「既存の冷蔵庫の性能を向上させ、現在のターゲット顧客層に対して積極的な広告キャンペーンを展開し、シェアを拡大する」
- 市場浸透戦略
- 市場開拓戦略
- 製品開発戦略
- 多角化戦略
【解答】a. 市場浸透戦略
【解説】
この戦略は既存製品(冷蔵庫)を既存市場(現在のターゲット顧客層)に対して強化していくものであり、市場浸透戦略に該当します。性能向上は製品の根本的な変更ではなく、既存製品の改良の範囲内と考えられます。
例題2
問題: ソフトウェア開発企業Bは以下の4つの戦略を検討しています。アンゾフの成長マトリクスにおいて、最もリスクが高いとされる戦略はどれか選びなさい。
- 既存の会計ソフトウェアの機能強化により、現在の顧客の満足度を高める
- 既存の会計ソフトウェアを海外市場に展開する
- 現在の顧客に対して、新たに人事管理ソフトウェアを開発・販売する
- ブロックチェーン技術を活用した金融サービスアプリを開発し、一般消費者市場に参入する
【解答】d. ブロックチェーン技術を活用した金融サービスアプリを開発し、一般消費者市場に参入する
【解説】
選択肢aは市場浸透戦略、bは市場開拓戦略、cは製品開発戦略、dは多角化戦略に該当します。アンゾフの成長マトリクスでは、新規市場に新規製品を投入する多角化戦略が最もリスクが高いとされているため、正解はdとなります。
例題3
問題: 企業Cは以下の成長戦略を実施しました。この戦略を成長マトリクスで分類し、この戦略のメリットとデメリットを述べなさい。
「既存の顧客関係管理(CRM)システムの技術を応用して、新たに従業員エクスペリエンス管理(EXM)システムを開発し、人事部門向けに販売を開始した。」
分類:製品開発戦略(既存市場×新規製品)
メリット:
- 既存顧客との関係を活かして新製品を販売できる
- 既存の技術基盤や知識を活用できるため、開発リスクを抑えられる
- 顧客一社あたりの売上(顧客単価)を向上させることができる
デメリット:
- 新製品開発には一定のコストとリスクが伴う
- 既存製品との共食い(カニバリゼーション)のリスクがある
- 新製品が市場ニーズに合致しない可能性がある
例題4
問題: 次の文章の空欄に当てはまる適切な語句を選びなさい。
アンゾフの成長マトリクスにおいて、( ① )戦略は既存の製品を新しい市場に投入する戦略であり、( ② )戦略は既存の市場に新しい製品を投入する戦略である。4つの戦略の中で最もリスクが低いとされるのは( ③ )戦略である。
① a) 市場浸透 b) 市場開拓 c) 製品開発 d) 多角化
② a) 市場浸透 b) 市場開拓 c) 製品開発 d) 多角化
③ a) 市場浸透 b) 市場開拓 c) 製品開発 d) 多角化
【解答】①b ②c ③a
【解説】
市場開拓戦略は既存製品を新規市場に投入する戦略、製品開発戦略は既存市場に新規製品を投入する戦略です。最もリスクが低いのは既存市場・既存製品の市場浸透戦略となります。
5. まとめ
成長マトリクス(製品・市場マトリクス)は、企業が持続的な成長を実現するための戦略立案に役立つフレームワークです。既存/新規の市場と製品の組み合わせにより、市場浸透戦略、市場開拓戦略、製品開発戦略、多角化戦略という4つの成長戦略オプションを提示します。
各戦略にはそれぞれ特徴とリスクレベルがあり、企業の状況や目標に応じて最適な戦略を選択することが重要です。市場浸透戦略は最もリスクが低く、多角化戦略は最もリスクが高いとされています。実際のビジネスでは、これらの戦略を単独で実施するだけでなく、複数の戦略を組み合わせて実施することも多いです。
応用情報処理技術者試験では、情報システム戦略の一環として、このような経営戦略の基本的なフレームワークを理解し、ITがどのように企業の成長戦略をサポートできるかを考えることが求められます。特に、デジタルトランスフォーメーション(DX)が進む現代においては、IT技術者も経営戦略を理解することの重要性がますます高まっています。
成長マトリクスは、単なる理論的枠組みではなく、実際のビジネス現場で活用できる実践的なツールです。製品と市場の観点から戦略オプションを可視化することで、経営者やIT技術者が企業の成長方向性を明確にし、最適な資源配分を行うための指針となります。成長戦略の選択が企業の将来を大きく左右するため、このフレームワークを適切に理解し活用できることは、IT技術者にとっても重要なスキルと言えるでしょう。